よし君の散歩道

「自分史の嘘?」

昔、自分史なるものが流行した。今までの自身の世あたりを振返り文章にして後世に残そうとゆう算段だ。
時代的には何時頃だったか。確かバブルがはじけて久しい時だったと記憶している。もうこれ以上成長しない日本経済を憂い、暗雲立ちこむ時の中でせめて自身の存在証明だけは....とまぁこんな思いだったのであろう。(いや、もっと理性満々に武勇伝の如く記した方もいるでしょう)
それは瓦礫のような過去の時間を一つ一つ拾い上げては修正して理想の時間にプリコラージュする。そんな切ない発掘作業である。
亡くなった父がこう言っていたのを覚えている。「自分史なんてのは大体みんな自慢話になっちゃうんだよ」そう、大概,負の歴史は消されるか、美しく勇ましく捏造されるかのどちらかだ。
 「生きているうちは夢である....」とそんなセリフがシェークスピアの作品にあったような。
自分が生まれてから死ぬまでの夢を一夜で見た人もいると聞いている。
ここまでくると夢と現実の境界線が何処にあるのか。強いて言えば私が私である根拠は何処にあるのか居たたまれなくなると思うのだが。

 つい先日TVを見ていたら、職を辞した後を心豊かに過ごすにはどうすべきか....そのノウハウを伝えるための講座が巷で流行っているという。歴史は繰り返されるのか。リタイア後のシニアの聴講生を前に講師の第一手は、皆様の今までの人生で時めいたことを書いてくださいとのこと。きっと自分の成功体験を掘り起こさせて、そこからこれからの生きがいに....との趣旨である。
さっきも述べたが人間の記憶なんてものはあてにならないのである。
それでも聴講生たちは自身の存在を捏造する。はたしてやりたいことは見つかったのであろうか。

ここでまた亡くなった父の名言。「やりたいことなんてすぐには見つからない。趣味なんてものは現役中忙しくても好きだからやり続けるわけで、それが定年後の生きがいになるんだよ」
 まさにその通りである。ローマは一日にしてならず、趣味だって同じである。小賢しい講座を受講したからとて見つかるはずがない。そんな功利的な話ではないのであり、たとえ一瞬希望の光が差したとしても直ぐにまた時間の瓦礫に埋もれてしまうのでしょう。

戦後、前へ前への時代からバブルの時代までは働くことこそ存在証明だった。24時間戦えますかとバブル期のCMの歌詞のように働くことが美徳だった。だから趣味などなくてもやり過ごせた。今やワークライフバランスなんて概念が世を席巻して価値観が多様化して混乱してしまうのである。そこで登場するのが自分探しだ。そう、自分史は過去の自分探しなのかもしれない。
あるフランスの哲学者は言う。私がどんな人間だなんて決め付けないでください。
そしてある禅僧はこう言う。自分がどんな人であるかは他者が初めて判断するのであり、それがリアルな自分なのですと。
私と時間との間に夢という空間があるのだとしたら、時間とは世界の上部構造で現れる制度的時間のように割り振るなんてできる代物ではないのかもしれない。
熟練した業師が言葉で教えられぬように、何べんも繰り返して息と一つになる。そんな時を忘れる術を覚えなければならない。







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