よし君の散歩道

「自身を被験者として~現実の哲学~」

 年を重ねていくと病の一つや二つ誰しもありますよね。最近は健康ブームで様々なサプリメントが開発されたり、医学の進歩も著しく健康寿命をどこまで延ばせるかが求められている。そうそう、子供のころ運動会などの景品でもらう鉛筆に「健康の喜びを」なんて印字してあったのを覚えている。このように現在過去未来を生きる人間は他の動物とは違い殊更に健康への気遣いを欠かしません。人生100年時代なんて言う政府の布教活動に踊らされている感は否めませんが、健康であること自体が我々の権力意識の醸成に一役買っているのです。その証拠にTVを点ければサプリメントや薬など医療関係のCMの多さに気づかされる。元気なお爺ちゃんお婆ちゃん達が元気はつらつ喝破しているCMのシーンをこれ見よがしに見せられると、そのような絵面は体のいい社会の標識のようなものと思いながらも、それらの商品を藁をも掴む気持ちで何故か手が伸びてしまう。自身の身体が強迫観念の基になっているみたいだ。細胞は毎日入れ替わり肉体レベルではほとんど別人なんですよ。それでも記憶があり心の連続性があるから悩んでしまうのです。
 皆さんは立花 隆というジャーナリストをご存じですか。様々なジャンルにわたり哲学的な考察・研究を生涯にわたって行い、数多くの著作を生み出した知の巨人。「人間は何処からきて何処へ向かうのか」という命題を基に知の集積とフィールドワークを貪欲に突き進めた人です。自分が誰なのか・今何処に居るのか・今が何時なのかを把握する能力を得るがために、宇宙と地球環境の違いは、人と猿の違いは、物質と生命の違いは、生と死の間とは・・・等々、形而上学と科学の限界値とも言うべく存在の森に奥深く踏み込んでいきました。また音楽などの芸術にも興味を持ち森羅万象という生の羅針盤を縦横無尽に駆け抜けていった超人です。
 そんな彼も晩年に大病を患っているのですが、その治療と手術でさえも自らの研究の対象にしたのです。恐るべき知への探求心です。病が人の体内でどのように活動し蝕んでいくのか。自分の体が大儀な時にも、まるで自分自身を被験者として事象の構造を追い求めていたのですね。彼が言うには、人が生きていくこと自体が病を育てている。病とはは半分人間(自分)で半分モンスター。われわれ人間(自分)の身体と分かちがたく存在していると。
 彼の闘病生活に比べれば取るに足らないものではありますが、私にも当然に病の一つや二つあります。なかなか良くならない現状に日々気持ちが萎えることだってある。それでも彼の病との向き合い方を見て私も自分自身の状況を客観的に見るべく自身の治療過程をあれこれ考えてみました。まぁ彼の真似事みたいなことを取り入れてみたのです。やがて私の脳裏にこのような妄想が…「世間一般に健康と言われているときは階段の踊り場に差し掛かっているようなもの。定常状態とはモグラ叩きのように無数の穴から代わる代わる不規則にひょっこりと顔を出す病を一つ一つ粘り強く対処していくようなもの」・・・う~ん、やっぱり妄想(笑)。まぁ何が言いたいかと言えば、科学的にあれこれ考え、研究したりしていると不思議と自然に心がニュートラルになっていくのに気づくんです。逆に俗に言われる健康状態に執着すると心身が膠着していく。心身一如とは本当なんです。自分自身の悩みを在り方の謎として捉えてみる(哲学者、永井 均の著書にあったフレーズ)、そうゆう態度が必要かもしれませんね。
 それでもやっぱり平気でいることは難しい。やはり現在過去未来という時空を生きる人間はどうしても何故、何故…と考えてしまう。でもそれで当然ではないか、機械ではないのだから。リセットボタンを押して元に戻る様なことは出来ない。心との連続性が人間であることの証明なのです。
 意外と健康への過度な執着を手放し、かといってなすがままというわけでもなく、一つの物種として自分自身を冷静に見つめることができれば意外と幸せに病と仲良く付き合っていけるのかもしれません。小賢しい小手先の術は役に立たない…そう思って現実の哲学を自分なりに築いて、なるべくいっぱい幸せな日々を集めては如何でしょうか。
 幸せってなぁ~に? う~ん・・・このテーマはまたいつの日か。

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