1990年代半ば、「はみだし刑事 情熱系」という刑事ドラマがあった。現在BSで再放送をしている。主演は柴田恭兵。彼のストレートな熱い役柄が、変わりゆく社会の中で、今まで信じてきたものを力づくで手放さまいとする、そんなメッセージが視て取れる。何故にこのドラマを引き合いに出したのか。あれから四半世紀が経った今、このドラマの再放送を観て想うのは1990年代は時代の転換点だった…のではあるまいか、そう感じるからである。
音楽の世界も1990年代にはっきりとした転換の刻印がなされたように思う。アメリカの音楽シーンでは大所帯のロックバンドが徐々に表舞台から姿を消して、今ではヒップホップや先鋭化?されたR&Bが音楽シーンを賑わしている。文化は西から流れて日本も転換期を迎えた。流行り廃りがあるのは何の不思議もない…こちらも何故にそんなことを…との声が聴こえてきそうである。
その通り、時代は幾重にも変化を経験してきた。それでも1990年代は特筆すべきものがあると思う。何とも言い現わせない不気味な変身である。この変身は時間(とき)の連続性のうちに起きたことなのだろうか。
1991年、バブル経済が崩壊した。社会の大きな物語が瓦解したのである。その後、失われた10年なんて言われるほど社会経済は停滞してた(今現在に至っては失われた30年である)。これから先何処へ向かえばよいのか逡巡しているその最中、1990年代後半にアメリカ発PCソフトのWindowsが日本にも上陸した。社会のデジタルシフトの契機である。通信技術はその後無数に触手を伸ばし、それは人々の通信規模や速度を変えた。時空の観念を書き換えてしまったんだ。それはやがて人々の体内に浸潤し事の連続性を破壊した。強度がものをいう様になり、時空の尺度を失ってしまった。世界は上部構造と下部構造の自由な交通を解禁したんだ。もう実線で軌跡を辿ることは出来ない。世界には中心(幹)があって、そこから枝葉が生い茂る、そんな秩序(ヒエラルキー)型社会からの逃走劇の萌芽だったのかもしれない。
物語とは意味の連続性の承認である。日本は戦後の高度経済成長からバブルが崩壊するまで、大きな物語を無意識に抱き、価値の再構築を企んだ。でもそれは帰らざる航海となった。
人類の歴史を巨視的に見れば戦後の社会常識や秩序(道徳)などは小さなプロットでしかないのかもしれない。根拠の外部へと意味をずらし続けて逃走線を引く。そうやって主体の変容を繰り返して新たな価値を再生産していくこと。これも寄る辺なき帰らざる航海である。
真夏の風鈴の音が、刹那刹那の過去の記憶を優しく包んで運んでくる。さぁもう一度、永遠回帰船に乗って航海に出かけてみよう。