よし君の散歩道

伝えたいことは伝わるか

 もう40年も昔の話。私が中学校を卒業した頃、卒業式の日に皆で合唱するお別れの歌は、どこの学校もおおよそ決まって海援隊の「贈る言葉」だった。当時とてもヒットしたんだ。同じ時期に「3年B組金八先生」という、これもまた当時流行った学園ドラマがあり(その後A組だのC組だの続編がありましたが)、そのドラマの主題歌が「贈る言葉」だった。そのドラマの主演は3年B組の担任役だった海援隊のボーカルでもある武田鉄矢だ。知ってるかな、最近では「101回目のプロポーズ」というドラマでも主演を務めてた(あっ、全然最近ではない)。因みにそのドラマの主題歌はチャゲ&飛鳥のSAY YES(これは有名)。
 「贈る言葉」の優しくも切なく、そしてどことなく未来に希望を抱かせる歌詞は学園ドラマの主題歌でもあったことと相まって、卒業式の歌には おあつらえ向きだった。
  「贈る言葉」の 作詞は武田鉄矢。その詩が誕生する端緒となった出来事を、先日TVで放送していた文化放送の記念イベントで、彼がユーモアを込めながらも心が打ち砕かれる失恋体験を語っていた。私にはその話のディテールが他人事のようには聞こえなかったのを覚えている。その瞬間、世界が壊れていくような、そんな場面が私の心の残像を呼び覚ました。・・・「贈る言葉」は壮絶な失恋の歌だったんだね。
 今、その歌詞を見るとあらゆる別れの場面に適用できるものと思えるけど、そう、それはもちろん後付けですよ。当時は学園ドラマの主題歌ということもあってクラスメートとの別れ、もっと言えば良き友と共にした時間とのお別れみたいな。まぁ、そんな優しいイメージで皆が洗脳されていた。つまり、伝えたいことが伝わらなかった。失恋の歌が友との別れの歌に変換された。でもそれでいい。だから曲もヒットしたんだし。そして多くの人を感動させた。
 歌であれ、演劇であれ、文学であれ、織り上げられた旋律や言葉は作者の手を離れ、様々な受け手によって際限なき不在を創り上げる。このようなことはフランスの文芸評論家であったロラン・バルトが[作者の死]という概念で社会に紹介・そして認識されたものである。読み手なり観衆なり聴衆なりが、それぞれの経験や出自を基にそこから生まれ出るイデオロギー(人生の価値観)という受信機(感性)に周波数を合わせてメッセージを受け取るのである。問題は受け手の方だけにあるわけではない。作者の方だって純粋オリジナルを生み出す創造主ではないということ。
 私たちは あることを語り合ったり伝えあったりする時には、鍵の掛かったファイルを交換してるにすぎないのかもしれないね。その表紙に書かれているタイトルが手がかりだ。そこから各自の感性で紡ぎだす互いの発話の集積で儚い交通可能性が芽生える。それが可能なのは、幸か不幸か私たちが最大公約数的な言葉の意味を使い共通認識する術をを学んだから…。
 ほら、よく,,話せば分かる,,って言うでしょ。あれはきっと、互いの周波数をチューニングしてるってことだよ。チャンネルが合う保証なんてないんだ。受信できたとしても錯覚とか誤解という雑音が入ることが多い。でもそれは言葉を持った以上、仕方のないこと。剥き出しの個人の生など伝わらない。
 伝えようとすれば一般化という現象は避けられない。それだから、物語という人生のアプリケーションで他者への郵便可能性を得る必要があるということ。そして、私たちはいつの間にか新しいフィールドへ誘われて、心癒され、救われるんだろう…仮初の?…。

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