今回は前回のテーマの続編、悲しみについてです。
悲しみは数知れど、およそ悲しみの生息する場とはどの様であるか。この世の森羅万象をすべて掲げることはできないので、ここでは次の二つに大きく分けてみたいと思います。一つは世間に流布している大概の人が同じように思い抱く悲しみです。つまり物語として社会の中で交通可能な悲しみです。もう一つはその人個人に突如として降りかかった言語化不可能なもっとも固有な実存的な悲しみです。前者は容易に想像がつくと思いますので、ここでは実存的な悲しみについて心の痕跡を探っていきましょう。
さて、いきなりですがその悲しみの場面が訪れたのは何故か。そこには科学的に証明できる原因が存在します。まぁ因果関係が複雑に絡み合って証明ができない場合や、そもそも証明不可能な場合もありますが、ここでは科学的に証明ができたとしましょう。ではそこに理由は存在するのでしょうか。原因と理由は同じような意味でつかわれておりますが私には生息域がパラレルに異なるように感じます。であるならばその悲しみの理由を問うことはできるのでしょうか。人はなぜ「あの日、あの時、あの場所で...」と問うてしまうのでしょうか。そう、おそらくですが言葉にしてしまったら社会的な原因に還元されてしまうのでしょう。であるから理由を述べても束の間の気休めにしかならない。実存的なものは点と線で解明することができない、う~ん何と言おうか、底なし沼にはまってしまったような…そんな感じ?。理由がわからないこと、隠されていることがそのひとを苛むのですよ。答えになってないか。いやですから言葉にできないのです。あっ、そうそう…オフコース(知ってるかな?唄っているのは小田和正…もうお分かりでしょ)の「言葉にできない」という歌を聴いてみてくださいな。喜びと悲しみの言葉にできない心が震えるような、言葉にしたら壊れてしまいそうな、そんな想いを疑似体験できますよ。
隠されているという意味では、禅家の語で「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」という言葉もあります。これは自分自身を戒めるという意味で使われるのですが、不思議な縁の空間が何時も何処かに足元にぽっかりと口を広げている。あまりにも理性的・合理的に我が物顔で生きていると、その穴に突然すっぽりとはまっちゃいますよ...みたいな、そんな言葉でもあるように思えます。あっ、やっぱり戒めだ。
自分の気持ちを余すことなく<理性的に・合理的に>伝えたい…という欲望としてはそんな淡い期待を抱いてしまうけれど、決して分からないことが変幻自在にその穴の中にだってうごめいているんだと…だからその分からなさを引き受けていかなければならない。いや、その分からなさに敬意を払うと言おうか、そうゆう感覚が人に対する優しさを呼び覚ましてくれるのかもしれません。これがハイデガーの言った良心の呼び声というやつか?…いや違う気がする。
つまりなんでしょう、実存的な思い(悲しみ)はとても個性的で比較不能で市場性がないのです。それでも人は、いやだからこそ人は、あの日あの時あの場所で・・・と問わずにはいられないのでしょう。そんなことをふと考えてしまう今日この頃です。
もしかしたら悲しみのルーツは、人が人を愛することを覚えてしまったからではないでしょうか。悲しみの経験を愛への贈り物にして、そして出会いを大切に…。
あ~小田和正のラブ・ストーリーは突然にでも聴こうかな。素敵なめぐり逢いの歌です。
喜びも悲しみも夢とうつつの境界線で・・・それではまた。