よし君の散歩道

「喜びと、悲しみとpart 1 ~喜びについて~」

喜びとは何か。悲しみとは何か。
いきなり形而上学的・存在論的な問いで堅苦しいですが、よくよく考えてみるとなかなかスパッと答えるのが難しいですよね。まさに形而上学的・存在論的な問いなのです。
 今回は先ずは喜びから。
喜びにもその生成には、意図的な場合と非意図的な場合(期待していたか否か)を考えることができます。この事を考えるのに一つあるお話を紹介いたします。
 それは以前(とは言ってもかなり昔)NHKで福井県の禅寺、永平寺の修行を紹介した番組の中でのお話。永平寺は禅の修行道場です。毎日毎日厳しい私のない修行の日々。それを目の当たりにした番組のレポーターと雲水と呼ばれる寺で修行する僧侶との問答です。問いはこうです(おそらくはこんな趣旨の問い)「とても過酷な日々だけど喜びってありますか」・・・そしたら雲水はこう答えたのです。「そうですね、昨日出来なかったことが今日出来たということですかね」...お気づきでしょうか、雲水の言った言葉にはこれだけの事をしたからこれだけの報酬を期待するという時間的・量的観念が無いのです。物事に期待(いや、執着かな)していないとでも言いましょうか。この様を前後裁断と言うらしく、もうこれは身体が感じることで理屈ではないのですね、今、今しかないのです。お家に帰って来た時には~ただいま~と言いますが漢字で書くと只今なのかな。只、只、ですね(となると~ただいま~も禅語か)。最近では林 修が「今でしょ」なんて言っていますが、どうでしょ、少し趣が違う感じがしますが。話が横道に逸れましたので軌道修正。
 思うに積極的に意図しようがしまいが、心のどこかで期待している以上その喜びはその文脈においての喜び、つまり物語的なのです。制作的喜びとでも言いましょうか。そして時間的にも概ね賞味期限があるようです。一方、雲水の喜びは発生的です。非物語的です。授かりものなのかな。
 これは私見ですが、雲水も「喜び」なんて殊更に意識していなかったのかもしれません。喜びは何ですか…なんて問われたから敢えてそう答えたのかも。どこまでも取り付く島がないですね。
 喜びとは、幾重にも姿を変えて、これだと思っても、すぅ~っとすり抜けて行く取り留めのないもののように感じます。ああ、ハイデガーの「存在と時間」を思い出した・・・これについてはまた別の機会に。


 

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